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Jリーグがアジアのプレミアリーグになるための挑戦

立教大学法学部を卒業後、商社に入社し、主に東アジア・東南アジアでのビジネスに従事した小山 恵さん。
2012年に株式会社Jリーグメディアプロモーションに入社し、Jリーグのアジア戦略室立ち上げメンバーとなり、黎明期から現在まで、Jリーグの国際展開・アジア戦略を手掛けてきました。
海外におけるJリーグの露出価値拡大・収益向上に貢献し、 2020年1月のJリーグ組織再編に伴い、現在は株式会社Jリーグ グローバルカンパニー部門に所属しています。そんな小山さんに、JリーグとASEANマーケットについて伺いました。
 

学生時代のサッカーと商社勤務で培ったキャリアを活かすためにJリーグに参画

海外進出事業を担当することになったときの心情はどのようなものでしたか?

小山さん:
そもそも、JリーグのASEANマーケット展開という事業を担当したくて、採用の募集に応募しました。募集の話を聞いたときに、とても意義のある事業だと受け止め、自分が目指そうとしている目標にもあっていました。また、学生時代にサッカーをやっていたので、将来はサッカーに関わる仕事をしたいとも考えていました。そして、なによりも前職の商社での経験や強みを活かせる仕事だろうと思ったのです。求人の倍率はかなり高かったようですが、なんとか私ともう一名が採用されました。


株式会社Jリーグ グローバルカンパニー部門 小山 恵 さん

アジア進出に挑戦していく中で、小山さんご自身が最も苦労されたことはなんですか?

小山さん:
ほとんどゼロからのスタートだったことです。海外での実績がない中で、立ち上げたプロジェクトチームは、社外からも社内からも、何をやっているのかわからない存在でした。当初は3名でスタートして、とにかく手当たり次第にいろんな人に会って、ネットワークを作る努力をしました。いろんなセミナーに積極的に顔を出したり、電話で直撃したり、各クラブチームに説明にまわったりと、ほとんど会社にいない状態で活動していました。

そうした努力が報われたターニングポイントは、どこにあったのでしょうか。それをどう乗り越えられたのか教えてください。

小山さん:
当時、Jリーグには東南アジアの選手は一人もいませんでした。そこで、まずは東南アジアからJリーグで活躍してもらう選手を見出すことにしました。しかし、当時はJリーグのクラブも東南アジアの選手を積極的に採用する機運ではなかったので苦労しました。そんな中、2017年にタイ代表MFチャナティップ・ソングラシン選手の北海道コンサドーレ札幌への加入が、大きなターニングポイントになりました。チャナティップ選手の活躍がメディアで取り上げられ、タイの人たちもJリーグや北海道に興味や感心を持つようになり、大きな成功事例になりました。
 

日本サッカー界の新たな歴史を作り日本と東南アジアの架け橋になる

アジア進出をしていく中で、最も泣いたこと/笑ったこと/困ったことはそれぞれどんなことですか?

小山さん:
感動の涙という意味では、やはり2017年7月の札幌ドームでのチャナティップ選手のデビュー戦ですね。その試合は、タイにも生中継されたので、事前に35,000本のタイ国旗を用意して、サポーターに配りました。そして、チャナティップ選手が入場してくると、日本人のサポーターが一斉にフラッグを掲げる様子が、タイにも放送されたのです。5年以上の苦労を重ねてきた仕事が、ひとつの形になったと感じました。タイはもともと親日派が多いので、チャナティップ選手をきっかけにして、タイと北海道がつながったのです。チャナティップ選手が来日した当初は、雪を見たことがなかったので珍しかったのでしょうね、食べていたりしました。


現在、東南アジアから多くの選手がJリーグのクラブチームに所属している

笑った思い出はどのようなことでしょうか。

小山さん:
笑うというか、今の仕事は日本のサッカー界の歴史になかったことに挑戦し続けているので、苦労は多いですが、楽しくやっています。今の仕事を楽しんでいることが、笑いというか笑顔につながっていると思います。

反対に、困ったことはありましたか。

小山さん:
困りごとはいっぱいあります。(笑)
商社時代は、現地の駐在員とかサポートがしっかりしていましたが、Jリーグは海外に支部などもないので、すべて自分たちでやらなければなりません。そうした経験の中でも印象的だったのが、東ティモールの子どもたちに、サポーターからいただいた1200枚のユニフォームを自分たちで届けたときでした。ユニフォームは25箱のダンボールに詰めて、ハンドキャリーで現地に持ち込みました。3名で入国したのですが、私が一番後ろからダンボールを台車に載せて運んでいたのです。そうしたら、私だけが税関で留められて、売り物ではないかという疑いをかけられ、取調室に一時間くらい監禁されてしまったのです。なんとか理解してもらって開放されたのですが、空港から向かった最初のアポイント先は、大統領だったのです。私たちの社会貢献活動を知った大統領が、面会の時間を作ってくれていたのです。大統領との会見も感激しましたが、そのあとに1200枚のユニフォームを孤児院などで配布して、子どもたちがものすごく喜んでくれたことは、監禁の苦労を忘れさせる感動でした。そう考えると、困ったことではあったのですが、今ではいい思い出です。
 

何事も日本の感覚で考えず開拓者魂で挑戦し続けていく

現地を訪問して感じた生活や経済感、文化の違いなどはありましたか?

小山さん:
心がけているのは、日本の感覚で何事も考えないようにしています。日本と違うのが前提なので、日本だったらこうなのに、と思わないようにしています。例えば、ミーティングが時間通りに始まらないとか、準備に時間をかけずに最後の最後で仕上げてくるなど、働き方や考え方が異なります。その違いにいちいち苛立っているとだめで、そこは現地に合わせます。ただ、決断のスピードは早いです。日本のように「持ち帰って」とかでは、ペースが合いません。

アジアへの挑戦を通して、ご自身はどのように成長されたと感じていらっしゃいますか。また挑戦の前後でご自身に何か変化はありましたか?

小山さん:
ゼロから新しい事業を作ってきたので、それは大きな経験になったと思います。前職の商社では、既存のベースがあって、開拓や拡販などには取り組んできましたが、何が正解かわかない中で、ゼロから形を作ってきた経験は、自分自身の成長につながったと受け止めています。

ゼロから手探りでの挑戦には、不安や心配はなかったでしょうか。

小山さん:
いえ。むしろ、やればやるほど可能性が見えてきたので、ポジティブに感じました。東ティモールでの大統領との面会ではないですが、この国では動けば動くほど、大物政治家や財閥などと普通に会えるので、ダイナミックな手応えを感じます。それくらい、Jリーグと日本のサッカーが、ASEANでリスペクトされているのだと肌で感じます。

<--ここに1枚小山さん実際の仕事の時の様子(コロナ前)の写真?-->

これからASEANマーケットに挑戦しようと考えている日本のビジネスリーダーや起業家に向けて、アドバイスや心がけることなどあれば、教えてください。

小山さん:
現地で話を聞くと、日本で学びたいという親日派が沢山います。私たちが大物政治家や財閥のトップと会えるのは、Jリーグだからというのもあるでしょうが、ビジネスでも日本から学んでいるので、サッカーも日本から学びたい、という日本好きの財閥トップは多いです。今後は、サッカーの人気が高い地域で、Jリーグが媒介となって、日本企業がASEANに進出するきっかけを作れたらいいのでは、と考えています。

時間を巻き戻してもう一度ゼロからチャレンジするとしたら、どんなサポート、どんな環境があるとよいですか?またこんなことをしたらよかった、など振り返って思うことはありますか?

小山さん:
現地の拠点があると、もっといろいろやれることは広がるでしょう。私たちは、現地の放送局などとパートナシップをとっていますが、今後は、代理店とかJリーグのアジア支部なども設立していけたら、より現地の活動も促進できると思います。

ご自身が、日本とASEANの架け橋としての役割を担っていく上で、目標とされるビジネス(他スポーツ)モデルや参考にされる人物などはいらっしゃいますか。

小山さん:
ONE Championship(ワン・チャンピオンシップ)には注目しています。創設者でタイ出身のチャトリ・シットヨートン会長は、アジア初のグローバルスポーツエンターテイメントを立ち上げた人物として興味はあります。これからアジアの時代になるので、アジア初のグローバルスポーツの取り組みは、Jリーグのグローバル展開にとっても、参考になるのではないかと考えています。

アジア・ASEANの魅力をひとことで表現するとしたら、どのような言葉を思いつきますか。

小山さん:
「未来」でしょう。これからASEANの時代が来ると思っています。人口も若くて、本当に未来があると感じます。人のエネルギーが、日本と違い元気です。コロナが収束すれば、インバウンドの流れも爆発するでしょう。また、今回のコロナをきっかけに、アジアに興味を持つクラブが増えてきているので、私たちの活動も大きくしていきたいと考えています。
そして、将来は日本のJリーグでプレイしたい、という目標を持つタイの子どもたちも増えています。私たちの取り組みが、タイの子どもたちの夢や可能性を広げるほどの影響力をもたらしたことは、良かったなと受け止めています。



ゼロからのスタートの中、様々な経験を経て日本サッカーを世界へと知らしめてきた小山さん。それは「ASEAN進出」という言葉だけでは言い表せない、子どもたちの「未来」をつくる仕事でした。色々な国の人たちが日本のグランドでボールを追いかける、そんな未来が見えた気がしました。





 

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