女性1人が生涯に産む子どもの人数である合計特殊出生率が1.33(世界銀行2021年)。新生児出生数も50万2107人に激減する一方で、死亡者数は59万5965人に増加(いずれもタイ保健省)――。こんな衝撃的な数値が今、タイの社会を席巻している。人口の維持が可能な出生率2.1を割ってから既に35年。1980年代には年間100万人もいた新生児が半減するという深刻な事態となっている。こうした現象は少子化の要因にも挙げられるが、タイの場合それだけに止まらない。早すぎる出産、届かない医療、妊産婦が安心して出産できる環境にないのも一因だ。そうした社会課題を解決しようとDXの力が活用されている。
妊産婦の4人に1人が18歳未満
タイ最北端チェンライ県の県都ムアンからさらに北北東へ約60キロ。ラオス、ミャンマーとの国境が目前のメコン川河畔に、この地区の総合病院チェンセーン病院はある。ここで2023年7月~12月にかけて実施された妊産婦実態調査の結果が衝撃を持って受け止められている。少子化対策の一つとして安全な出産の在り方がクローズアップされている。
報告書を取りまとめた同病院のナッダナイ・マリワン医師によると、期間内に聞き取り対象となった妊産婦はちょうど200人。10代後半から20代の若い世代が中心だった。平均年齢は23.8歳。経済成長が進んだタイの都市部では晩婚化が進んでいるというものの、北部や東北部などの地方ではまだまだ若年での出産が多い実態が分かった。
200人のうち18歳未満は、4人に1人に当たる47人。18歳以上が153人だった。一方、初めて出産する人は124人。出産経験が1回ある人が54人、複数回の経験がある人が22人いた。初産となる124人のうち8人は中絶や流産などの経験があるもようで、妊娠を初めて経験した人は116人だった。4回以上の妊娠経験を持つ女性も8人いた。
妊娠12週前健診は6割未満
調査対象の重要な一つに、妊娠初期の適切な時期に産科など専門医の診断を受けたかどうかという項目があった。全200人のうち、初期から中期に移行する妊娠12週までに医師の診察を受けた人は59.5%の119人にとどまり、81人の人が12週を超えて初めて診察を受けたことが分かった。初めて妊娠した116人の中でも12週前までに初診を受けた人は56.9%の66人に過ぎず、妊娠経験や適切な知識がないまま有効な対策が講じられず初診が遅れるケースが明るみとなった。
懐妊から4か月目にあたる12週目ころは胎盤が完成を迎え、主要な臓器が形成を始める時期。つわりがピークを迎える人も多く、母体への影響も大きい。胎児の手足もしっかり形成がされ、心臓を形作る右心房、右心室、左心房、左心室といった4つの器官も整う。これを乗り越えることで妊娠中期の安定期へと向かっていく。
日本ではこの時期よりも1~2カ月以上も前に、ほぼ100%の妊産婦が専門医の診察を受け、母子手帳を手にしている。流産のリスクや妊娠中毒症を回避しなければならない大切なタイミングだけに、医師の診断は欠かせないとの認識も共有されている。しかし、タイでは地方を中心に未だ整備が遅れ、出産が大きく命のリスクとして実存している。その主要な背景に、専門医の不足など妊娠の初期に受けられる健診が常態化していないという実態があった。
出産までの健診わずか5回
妊娠中期が始まる12週以降の健診にも大きな違いがある。日本では妊産婦のほぼ全員がこれ以後、月2~3回をペースに出産までに計14回以上の診察を受けている。妊娠後期にもなれば1週間に1回と、より受診頻度も高まっていく。夜間や休日など万が一時の緊急体制も整っている。
ところが、タイの地方では、出産前健診は初診も含め5回前後が一般的。ナッダナイ医師の調査によれば、妊娠12週前後に第1回目の健診を受けた後は、13~20週に第2回目、20~26週に第3回目、26~32週に第4回目、32~40週に第5回目の診察を受けるのがスタンダードなあり方なのだという。そしてこの間、たとえ身体に違和感があっても症状が軽く緊急を要さない場合は、自宅等で静養を続けるケースが多いのだという。
こうして、大半の妊産婦が5回までの健診に止まり、それを超えて受診する人は全体の1割にも達していないことも改めて確認できたという。健診へのアクセスの不便さや健診に対する考え方が周産期における命の危険を招いていることが浮き彫りとなった。
高い妊産婦死亡率
専門医による健診が少ない実態は、妊産婦に過度なリスクを背負わせることになりかねない。世界銀行グループによると、タイの妊産婦死亡率は2020年時点で10万人当たり29人。00年に48人だったそれは、05年に40人、10年に35人、15年に30人と漸減。過去20年間で4割も減った。
ところが、減少の方向としては大きく改善しているように見えるものの、他国等と比較すると必ずしもそうとは言えないのが実情だ。同等の経済発展や規模にある国々と比較すると、タイの妊産婦死亡率は特に高い印象を受ける。
例えば、隣国のマレーシア。00年に10万人当たり40人だった妊産婦死亡率は、20年には21人と10人台をうかがうまでとなった。中国も00年には58人だったのが、15年には26人、20年には23人までに減少。中東イランも同様に00年には44人を記録していたのが、20年には22人と半減。トルコに至っては00年に32人だったのが、20年には17人にまで激減している。
新生児死亡率も世界と隔たり
新生児の死亡についても、タイはなお高い水準にあることが分かっている。タイ保健省によると、2000年に出生1000人あたり18.7人だった新生児死亡率は漸減を続けながら、05年には14.8人、10年には11.7人、15年には9.3人、20年には7.2人となり、22年は7.0人まで減少した。一見してタイ医療の進歩を感じるが、世界とはなお隔たりがある。
同じ22年の直近のデータでは、日本は1.7人、ドイツは3.0人、中国は4.8人、アメリカは5.4人。同じアジアでは、マレーシアが6.7人といずれもタイよりは低い。タイは、新生児の死亡率が低下しているとはいえ、まだまだ世界規模では医療体制に改善の余地がある国の一つとして受け止められている。タイの医療関係者、そして多くの母親がそれを待ち望んでいる。
スマート救急車
こうした妊産婦や新生児の尊い命を救おうと、このところタイで
本格導入が進んでいるのがDXの技術を使った遠隔医療だ。バンコク首都庁では、
幹線道路の慢性的な渋滞から来る搬送中のリスクを減らそうと「スマート救急車」を導入。通信会社の協力を得て、首都圏に張り巡らされた第5世代移動通信システム(5G)を活用した緊急医療の稼働を始めている。
救急車内の
天井などに設置された高精度カメラが妊産婦の外形的な状態を把握するほか、
車内に配置された医療機器のセンサーが母胎の状態や胎児の様子などを把握。データを得た専門医が通信回線を使って
病院に到着する前に、救急隊や看護師に指示を出す仕組みだ。
遠隔出産前健診
また、北部チェンマイでは、国立チェンマイ大学医学部と提携した
日本のスタートアップ企業が妊産婦の状態や胎児の心拍数を計測する無線式のセンサー機器を提供。40キロ以上も離れた専門医に医療データを届け、出産前健診に代わる診断を行っている。これまで遠隔地であることや家庭の事情などから出産前健診を受診できなかった妊産婦に命の診断を提供している。胎児の心拍データが容易に得られることなどから健診への関心も高まり、病院で受診しようという意欲的な動機形成にもつながりやすい。
こうした動きは、冒頭の妊産婦調査が行われた最北端チェンライでも始まっている。医療センターとなる地域の総合病院を拠点に、郡部の一般病院、さらには村々にある医師が常駐しない診療所にまでネットワークを構築していこうという試みが、圏域を超えて広がっている。遠隔地にいる医師が異常を察知することで、速やかな救急医療体制を整えることもできる。
適切な出産前健診を受けられずに引き起こされてきた妊産婦や新生児の死亡といった悲劇を少しでも減少させようと、政府も後押しを続けている。チェンマイやチェライといった北部や東北部、南部などは、そもそも医療施設が少ないうえに、常勤する専門医も少ない。
こうしたハンディをDXの力を使って補おうと、開発力のある内外の企業との連携も強化している。妊産婦や新生児の命を救うタイDXが本格始動しようとしている。
(チェンセーン病院外観)
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