もろみを搾った後に一切の加熱処理をしないのが、日本酒の生酒(なまざけ)。搾りたてのフレッシュな香りを楽しむ酒で、キンキンに冷やして旬の肴などといきたいところ。常温流通しないのが基本で、蔵元から厳重な管理の下、販売店に運ばれ店頭に並んでいる。当然に、船便輸送が中心となる海外では味わうことが困難な幻の酒でもある。ところが、そんな常識を打ち破るタイの輸入卸業者が現れた。
不可能を可能としたカギは、タイで進むDXの技術だった。
味の劣化
バンコクにあるバッカス・グローバルがその会社。オーナーの愛知県出身、原宏治さん(55)は10数年前から日本酒や焼酎、フランス産ワインなどのタイ輸入を手掛けている。自身もソムリエと利き酒師の資格を持つ食通。世界各地の隠れた銘酒を発掘し、タイや中華系などの富裕層へ提供もしている。
日本の生酒の輸入に取り組もうとしたきっかけは、ある著名人が発した一言だった。「海外で飲む生酒は、どうしてこんなに味が劣化しているんだ」。かねてより、自身もそう感じていたという原さん。改めて確認したところ、個人が航空便で持ち込むのとは異なり、業務用の輸入は船便に事実上限定。2週間以上もかかる航海で酒はすっかり温められ、風味が飛んでしまうとのことだった。
仮に保冷コンテナが使えたとしても、その前後、すなわち日本で出港を待つ間、バンコクでコンテナから下ろされ通関手続きが済むまで、さらにはタイ国内の輸送中に外気温にさらされる可能性が高い。生酒の輸入を手掛けるには、
日本の蔵元からタイの販売店に到着するまで、一貫した監視下における低温管理が必要だった。だが、莫大なコストがかかるため大掛かりな輸出入が行われたことはこれまでほとんどなかった。
そんな折り、江戸時代から続く日本の蔵元が生酒の海外展開を検討し、パートナーを探していることが分かった。聞けば、条件は常時マイナス5度~同10度の温度管理ができること。次々とライバル業者が断念する中、「できないことはない」と原さん。難問にチャレンジすることにした。
脳裏にはタイで導入が進むDXを活用した構想があった。
バッカス・グローバル社オーナーの原宏治様
マイナス5度~同10度の保冷輸送が条件
直ぐさま日本に飛んだ。タイ行きの船便がある全国の主要な港湾施設を訪ねては、マイナス5度以下で常時保管が可能な貸倉庫を探し歩いた。間もなく関西地方で1社が見つかった。ほどなく東日本でももう1社が。酒造メーカーと打合せ、蔵元から倉庫までの保冷輸送を取り付けた。倉庫では常温の荷捌き場を使うが、短時間で作業できることが分かり、品質に影響を与えないことも判明した。
船便輸送は保冷コンテナをまるごと借りることができれば問題はないが、経費は莫大。コンテナは混載が一般的であり、荷が揃うまで待ち時間がかかる。その点、倉庫会社が見つかり常時マイナス5度以下の保管が確保できたことで、次のステップに移ることができた。
タイまで2週間の航行中、荷主は同じ貨物船に同乗することはできない。荷を積んだら、後は原則船会社任せだ。保冷機能があるとはいえ、破損したり不調だったりとしても詳しい内容は分からない。何よりも長期にわたるこの間の保冷輸送が保証できなければ、蔵元は出荷にさえ応じてくれないことは確実だった。ここで活躍するのが
センサーによる温度の一元管理だった。
荷に同梱された温度センサー。航海中、継続して製品の温度を記録する。データはUSBメモリにデジタル保存され、
タイに到着後、引き抜いてPCで解析することが可能だった。これを一覧にまとめて提出することで、蔵元も輸出パートナーの力量を信頼することができた。
新規設置した保冷倉庫
保冷トラックと保冷倉庫を新規用意
2023年12月8日、テスト輸送として日本から送った船便の第1便が河川港であるバンコク港に到着した。知らせを受け駆けつけた原さんが荷を確認すると、しっかりと冷たいまま。後に事務所内の
PCでデータを解析すると、11月下旬の日本出港から一度もマイナス5度を上回ったことがないことが確認された。荷揚の際、外気温にさらされた時間が夜間のほんの一瞬であることも分かった。
通関を終えた生酒のテスト商品は、直ちにバッカス・グローバル社がこの輸入のために新規購入した専用トラックに積み替えられた。トラックにもマイナス5度以下の保冷機能が備わっており、温度センサーが記録する仕組み。貨物船内に荷があった時から温度の変化を連続して把握することで、積み替えなどのわずかな隙間時間さえも見逃さなかった。
やがてトラックは、同社が新設した保冷倉庫に装着する。奥行き約10メートル幅約5メートルの倉庫は、同社が発注した特注品。内部は常時マイナス5度~同10度に設定されており、24時間365日コンピュータが制御。異常を感じた際は会社や原さんのスマートフォンに、現況を知らせるアラートを発するよう設定されている。ここから販売店舗までは車で約20分。先ほどの保冷トラックが運ぶ。
タイ国内輸送向けに新規調達した保冷トラック
温度センサーによる一元管理
テスト輸送が無事成功を収めたことで、海外展開を検討していた日本の蔵元はバッカス・グローバル社を正式にタイにおけるパートナーとして認定した。輸出は今年10月にも開始が見込まれており、一部の他銘柄も合わせて初年度は1500本程度が見込まれている。日本の生酒が初めて本格的に海を渡ることとなった。
今回の勝機は、温度管理を一元化しバッカス・グローバル社の監視下に置いたことによるものだ。ともすれば輸出入は、国内輸送・保管・船便・荷揚・通関・相手国内輸送・保管とそれぞれの工程に分けて異なる事業体に発注されがちだが、それらを極力減らしたことが大きい。事業体が異なれば、荷の引き継ぎの際にどうしても温度管理に穴が生じてしまい、そこから商品は劣化するからだ。
「
温度管理をデジタル化し、トータルで把握できるようにしたことが大きかった」と原さん自身も振り返る。その上で心配はむしろ、タイよりも日本側に多かったとも。DX技術の進んだ熱帯の国タイでは、すでに倉庫・輸送業界にもデジタル技術の活用が始まり実用化も進んでいる。
日タイをつないだタイDXの輪が生酒の海外輸出を実現させた。
1000年以上の歴史を持つ日本酒。そして生酒。タイにある日系の輸入卸業者が海外に向けて開いた扉は、かつてはとてつもなく重いものだった。「バンコクにすごいインポーター(輸入卸業者)がいるらしい」との評判も、すでにあちこちの市場で耳にするようになっている。
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記事制作:小堀晋一(こぼり・しんいち)
2011年11月、タイ・バンコクに意を決して単身渡った元新聞記者。東京新聞(中日新聞東京本社)、テレビ朝日で社会部に所属。一連の銀行破綻時件やオウム真理教事件、阪神淡路大震災の取材などに従事した。現在はフリーランスとして、日本の新聞、雑誌、タイのフリーペーパーなどで執筆。講演多数。
連絡先:kobori(@)dream.jp
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